ガゼルとワンコのブログ

大学生のガゼルとワンコによるブログ。2匹のとりとめのない日常を、少しとりとめて掲載。

下駄をぬげ、台から降りるんだ。

 ガゼルは大学で、ジェンダーを女性の視点から考察する、という講義を取っている。

今年の春から受講しているので大したことが言える立場にはないのだが、春からここまで受講して思っていることを書いていこうと思う。

男女共同参画という理想に向けて

男女間の格差が叫ばれて久しい。

とくに最近では#metooムーブメントなどがスポットライトを浴び、男性側の無関心とのコントラストでより運動が目立っているように見える。

もっとも、女性側は昔から声を上げていたし、男性側が聞こうとしなかっただけで、こういう運動が今に始まったわけではない。

男性側の「急に騒ぎ始めやがって...」みたいな反応こそが、この問題の構造を如実に表している。

そこで男性側に問いたい。

‟いつまで見えない聞こえない、を押し通すつもりなのか”と。

男性は現在の社会構造の中で、優位にいる。これは明白だ。

ともに学校でまなび、能力も変わらない異性はいつの間にか社会の表舞台から消え、

自らは同性間の争いに没入し、サポート役を当然のように女性に押し付ける。

そして、現在の男性優位の日本の社会構造を担保しているのは、時代にそぐわぬ偏見と現存する社会構造そのものだけだ。

つまり偏見でゆがんだ視野をなおし、少しずつ社会を変えていけば、男女の不公平などすぐに過去のものとなる。

 

男性に一つ言っておきたいことがある。

男女間の格差は“見ようとしなければ見えない”ということだ。

優位に立つものは、その優位性ゆえに劣位のものを無視しても生きていける。

現状、社会的に優位なポジションにいる男性は女性のことなど無視しても死ぬことなどない。

のうのうと、ぬくぬくと生きていける。

 

ただ、それでいいのか?

男性に生まれたあなたと、女性に生まれたあなた、そこに違いはあるのか。

社会的に優劣をつけられてしかるべき理由などあるのか。

ない。ないだろう?どう考えてもそこに合理的理由などない。

 

では、社会や自分の頭の中に男女格差がある現状をどう説明する?

できない。ここにも合理的理由などないからだ。

そこにあるのは、いつのまにか染みついてしまった偏見と慣れ親しんだ男女格差のある社会だけだ。

 

逆に言えばそれだけの問題なのだ。

あなたが現状に気づき、自分の思考をアップデートし、行動を変える。

それだけで世界は変わる。大げさな言い方になってしまったが、少なくとも世界は別の表情をあなたに見せる。いままで見えなかった、聞こえなかった表情を。

だから男性にはこの機会に一度立ち止まって探し出してほしい。

あなたが心地よく生きている社会のなかの違和感を、不平等を、差別を。

けっして気持ちのいいものではないかもしれない。

いくらかの人は「俺は違う」と思うだろう。

最初はそれでもいいのかもしれない、俺は違うぞと。

それを行動、思考、発言で表明してほしい。黙っていたら何も変わらない。

違和感に気づかず、格差、差別をほったらかしにしてマジョリティにいたことは素直に認めて、行動で示すべきだ。

「おれは違う、でもかつて俺はマイノリティを無視していた」と素直に認める。

これだけで世界は別の表情をあなたに見せる。それはもっとグロテスクな表情だ。

下駄を脱げ、台から降りるんだ

 大学の授業では各々が発言する機会が与えられるのだが、ガゼルはときどき発言に違和感を覚えることがある。

よくよく考えたところ、それは全て男子生徒の発言であり、謎の上から目線が内包されていることに気がついた。

もちろん彼らは好んで受講しているので、一般大学生と比べてもジェンダーや男女格差に理解があるのだ。それでも上から目線に感じてしまう。

なぜか考えた。

そして一つの結論に達した。

彼らは“一段下にいる女性を引き上げて、男性と同じ視線に立たせてあげよう。、もしも女性が本当にそれを望むのなら”というスタンスなのだ。

 男女平等というのは、ともに下駄をはいて優遇されましょうという話ではない。

男性が、男性優位という名の下駄を脱ぎましょう、台から降りましょう、という話なのだ。勝手に周りより一段上にいる君が、合わせるんだ。

そして“女性が本当に望むなら”というのも間違っている。

なぜなら、優位にいる人物に異を唱える場合、たいてい良い結果は生まれない。生まれるのは優位者からの攻撃である。

長いあいだ男性に虐げられてきた女性に対して、男性にはっきりモノ申せ、というのは銃を突きつけながら「正直になんでも言って」と言っているようなものだ。言えるわけがない。

 聞きたくないことが聞くべきこと

もう一つ、注意しておくべきことがある。

女性の中にも男女不平等を内面化した人はいる、ということだ。

長いあいだ男女不平等の世界に生きてきた男性が男女不平等に気づかないのと同様に、女性も男女不平等を内面化して受容してしまう場合が少なくない。

そのほうが女性にとっても辛くないからだ。差別を差別と認識することは、重くきついことだ。認識するものに重荷を課す。

そのため自己を重荷から守るため、差別をあきらめ当然のこととして受け入れる人は少なくないように思われる。

男性側はそのような人や意見に出会った場合、「女性も現状に満足してる」というような短絡的な思考に陥ってはいけない。それはあまりに幼稚だ。

女性にそう言わしめるほど男女不平等が根深いのだと気づくべきで、注意すべきポイントだ。

また、それを訂正するような態度も間違っている。その人には自分で意見を選択する権利があるし、第一いままで何もしてこなかった分際で“訂正”などおこがましい。

そういわざるを得ない状況をなくすことが、すべきことであり出来ることだ。

悶えながら、少しずつすこしずつ

自分の偏見や思考と向き合うのは大変な作業だ。ときに苦痛も伴う。

それゆえ反動化する可能性を大いにはらむ。

ただ、その苦痛が理想へと近づいていることの何よりの証左であると思う。

苦痛を感じるときは、しっかり苦痛と向き合うべきだ。向き合って、その苦痛がどこから来るのか探る。苦痛のメカニズムが解明されれば、もう苦痛は消え去っているなんてことはよくある。

くれぐれも短絡的な二元論なんかに陥って、反動化してほしくない。

無理に急ぐ必要はない。

苦痛に悶えながら、苦痛と向き合いながら、

少しずつでいいから、理想へと歩みを進めてほしい。

ここにもゆっくり歩みを進めるガゼルがいるのだから。